ライフサイクルから見た困った人たち

人生はけっして一定のところにとどまってはいない。最初は熱烈に相思相愛で結婚しても、情熱は次第に冷めていく。冷めていくと。いままでに比べて、相手の現実の姿が目に見えるようになる。そして。相手がどんなに「困った人」かが、はっきりと読めるようになる。

梅宮アンナさんと羽賀研二君の場合なら、まだ結婚していなかったので。別れることができたけれど、これが結婚しているとなると、簡単に離婚に踏み切るわけにもいかない。若いころは素晴らしく仲のよかったカップルが、中年になると、お互いに恨みや憎しみを向けて、傷つけ合うカップルになり、相手を、「困った夫」「困った妻」と思うようになる。

夫婦の場合、どちらか一方が主役で、他方がそれにつき従っているという場合、そのつき従っている人は、その人、妻に適応しているとはとても言えない。そこでは自分らしさが失われている。もっと自分らしくなりたいと思うときに、夫と妻の間の相互性が期待される。

この相互性がうまく発揮されないまま、ただ一緒にいて歳月を重ねていると、中高年になって。離婚に至ることにもなりかねない。それまで耐え忍んできた妻が、その不満や怒りを爆発させて離婚になってしまうケースが、最近多い「熟年離婚」など、まさに困った妻。困った夫の結末である。

そうならないためには、まず人生の各年代それぞれの段階ごとに、いろいろな危機に出会いながら、その危機を二人して一緒に解決していく、そんな協力が必要だ。その場合には、お互いに不満を言い、お互いが相手の不満を受けとめて、相手の気持ちに気づき、そして、お互いの間柄を新しいものに変えたり、調整していく。こんな心の係わりを「相互性」という。この相互性がうまく発揮されているかどうかが、夫婦の場合、とても大切だ。

たとえば、先はどの甘太君は「どうしてこんなに煩わしい人を好きになったのかしら」と、妻に負担に思われるようになる。政治家のイバリ氏の妻は、彼がとても男性的でかっこよいと思って恋い焦がれたけど、実際一緒になってみると、まったく自分本位な人間なので、結婚したのを後悔している。

けち田部長の妻は、真面目でかたぶつで、この人なら絶対浮気もしないし、信頼できると思った。ところか、けち田部長は堅物ではあるけれどケチで倹約家すぎて、妻は「たしかに安全だけど、このケチな人と一緒では、楽しみもなく、生き生きとした明るさもない人生だわ」と嘆いている。

しかし、イバリ氏を好きになった女性は、本当は自分がスターになって人気者になりたかった。それを代弁してくれるから、イバリ氏を好きになったのだ。そして、イバリ氏はますます、妻に対して横暴で傲慢な態度をとるようになった。甘大君の妻は、彼のやさしく親切な気持ちにほだされて、いつも大事にかわいがってもらいたかったから一緒になったのだ。だから、甘太君も、余計そんなふうに係わるようになった。

みんなそれぞれ、最初よかったものも、年を経るに応じてその裏が見えてくるようになる。愛の巣と思っていた家庭が、しまいには空巣になってしまう。そして母親は、困った息子やひとり立ちできない娘とともに暮らす苦痛を毎日味わうことになる。

夫婦だけのときはよかったけれど、妊娠し、子どもを育てることになったら、子育て拒否でまったく困った母親になってしまった女性。恋愛中はよかったけれども、結婚して時が経つにしたがって、お互い考えもまったく違うことがわかり、違和感がひろがり、いつの間にかセックスレスになってしまった夫と妻。

こうした各年代に特有な困った人たちが、別途記事に登場する。ここでは、概要を述べたが。それぞれの「困った人」について、別の記事でさらにくわしくお話しする。

— posted by Azuma at 11:50 am  

適応がよすぎる困った人たち

見かけだけ周りとうまくやっている人に比べて、もっと積極的に適応しなければ気がすまない人たちがいる。この願望が強くなると、過剰適応の状態に陥る。「評判のいい困った人たち」は、大なり小なり、こんな過剰適応の状態を経験している。

それぞれの人たちがその性格傾向ゆえに周りとうまくいって、評判もよい、適応もよい。ところが、その同じ性格傾向が、身近な人にとっては、とても苦痛なものになるという話をしたい。たとえば、職場では、その性格傾向か適応のよい条件になるが、家庭では、それが家庭人として困った傾向になるといった、性格傾向の持つ表と裏、あるいは。長所と短所の両面についてお話しする。

受け身君は会社ではとても評判がいい。上司の言うとおり何でもよくやる。甘太君も、ある時期はみんなに親切で、世話好きで、いい人だった。けち田部長も経理部長としては信頼度が高い。イバリ君だって、政界ではとても大衆的人気があり、将来を嘱望された。受け身君は、しまいには自分らしい気持ちが持てなくなり、上司に愛されることばかりが大事になって、妻からは「困った夫」になった。

イバリ君は、政界でかっこよく自己主張し、革新派の首領になったが、その分だけ人々の恨みを買い、人を傷つけ、敵がどんどん増えてしまった。甘太君も、しまいにはみんなから「うるさい人」「煩わしい人」と思われるようになってしまった。

— posted by Azuma at 10:39 am  

いつも相手役が必要な困った人たち

ここでぜひお伝えしたいのは、「困った人」は実は一人だけ独立して、「困った人」として存在するわけではないということだ。つまり、お互いの「組み合わせ」で困った人になることが多い。もし、別な組み合わせだったら、その人は困った人にならないかもしれない。

たとえば、「せっかちな人とグズな人」の組み合わせがそうだ。相手もゆっくりで、落ち着いてコツコツ仕事をする人だったら。グズと言われる人も、それなりにゆっくりしたペースで、小さい失敗かあっても、何とか支えてもらえるかもしれない。しかし、相手がせっかちだと、ますます緊張し、不安になり、失敗も多くなり、そのため余計に、「グズだ、グズだ」と責められる。

また、せっかちな人にしてみると、相手がきちんと自分のペースでやってくれる人だったら。そんなにイライラ、せかせかしなくたって、一緒にやっていけるペースを掴むことができるかもしれない。しかし、相手があまりにもグズでだらしないと、つい、いきり立ったり、先取りしたりして、「困る、困る」と言うことになる。そして最後には、「きみはグズだなあ」という言い方になってしまう。

お互い、相手をせっかちすぎるとか、あわて者だと思うとき、あるいは、グズだ、だらしないと思うときには。相手との組み合わせで、その気持ちかどんなふうに生まれているのかを考えてみよう。たとえば、やきもちで苦しむ人は、自分が、やきもちをやかせるような相手を選ぶ傾向がないかどうかを考えてみよう。ハンサムで誰からも好かれ、もてる相手を選べば、どうしてもこちらは嫉妬に苦しむ機会がふえる。だけど、ついそんな相手を選んでしまう。

やきもちをやかれるほうも、相手にそんなふうに自分に愛着してほしい気持ちがあるのではないか。そのために、自分を独占したい気持ちが濃厚な人との組み合わせになってしまって、ちょっとした自分の言動からもやきもちをやかれて苦労することになる。

自分のことばかり考えている自己愛人間は、いつも身近な人に恨みを買ったり、ねたまれたりしやすい。「どうして、あいつはああうまくいってるんだ」と言われる。ところが、不思議なことに、自己愛の強い人は、そういうねたみや恨みを抱きやすい人を頼りにしたり、仕事のパートナーにする。そういう人のパートナーになりたい人、パートナーになる人は、最初のうちは成功者、あるいは自己顕示の派手な人に憧れ。同一化して、自分の気持ちもそこで満たそうとする。しかし、途中からだんだんそれが相手に対するねたみ、恨みに変わっていく。

相手のあらわす困った感情、困った行動のうちのかなりのものは、実は、自分の心の中にある困った傾向かそこに反映されている。そういう理解が、人と人との係わりをスムーズにする上では、とても役に立つ。どうしてこんな人を妻に選んだのか、夫に選んだのか。その選んだ理由が、後になると、その人を苦しめたり、傷つけたりすることかとても多い。ここでは、この心のあやを皆さんにに強調したい。

— posted by Azuma at 11:18 pm  

見かけはうまくいっている困った人たち

今までお話しした困った人たちは、いわば外的な不適応の人たちである。つまり、周りでみんなが見ていて、職場、学校、家庭に不適応なために、「これは困った人だ」と言われる人である。その困った問題、不適応が誰にも目に見える形であらわれている人たちである。

ところが、後で登場する、見かけはうまくいっているが、自分の中で困っている人の場合には、周りから見ると一見うまくいっているように見える。役割も一応果たしている。ルールも守り、秩序に従っているかのように見える。人とのトラブルもなくて、一見協調性もある。

ところが、実は本人の内面では、その場面や環境がとても苦痛だったり、不愉快だったり、「もう自分はここではうまくやっていけない」という不全感を抱いていたりする。あるいは、「こんなところにいたら、とても自分らしくやれない。もっと本当の自分らしい暮らしかしたい」「もうこんな学校はいやだ、こんな職場はいやだ」と思っている人たちがいる。このような自己不全感に悩む人たちを、内的不適応の人と呼ぶ。

しかし、その人物が環境に適応しているかどうかは、今あげた3つの条件を満たしていれば済むわけではない。むしろ本当に適応していると言えるためには。その人らしさがいつもその場面で発揮されていること、人と協調しながらも。自分の意見が人に理解され、受け入れられる、そのような関係性を持てることが必要だ。

たとえば、家庭だけでなく、二流、三流と言われる大学には、不本意入学の学生が多い。もっといい学校に行きたかったのに、自分はこんな学校で我慢してなきゃならない。何とか学校の決めた決まりを守り、試験も受ける。だけどそれ以上には、この学校に本当の意味で積極的な一体感を持てない、不承不承通っている。

こんな学生の内心には、無気力や虚無感が漂っている。もし本当に適応するなら、その学校を1つのステップと考えて、もっと積極的に、そこでの自分の身の上を、よりよいもの、価値あるものに転換していく、そんな心のあり方が期待される。家庭も職場も同様だ。不本意入学だけでなく。不本意結婚や不本意就職のまま耐え忍んで、結果として、「自分の中で困る人」にならないように心がけたい。

この内的不適応感は、その人の心に大きなストレスをつくり出す。それでも我慢して、その環境で暮らしていると、やがて不適応感が心身症の形をとり、頭が痛い。胃が痛い、夜眠れないといった、いろいろな体の違和変調を引き起こすことになる。

この内的不適応感に悩む人の中に、第4章でお話しするように、本人があまりにも傷つきやすいためにコンプレックスを抱いてしまう、困った人がいる。自分の心の中で困っている人たちである。彼らは、内心、劣等感を抱いたり、悩んだり、人との係わりの中で些細なことで傷ついたり。落ち込んだりする。現代社会の中にも、「自分の中の困った人」に困っている人がとても多いのではなかろうか。

— posted by Azuma at 11:06 pm  

不適応な困った人たち

役割を果たせない・ルールを守れない・協調性がない

「困った人」は、その人物が暮らす環境に上手く適応できない面を持っている。そこでまず、みんなが困ったと思うかどうかを決める不適応の条件を、ここに登場する何人かを紹介しながらお話ししていく。不適応な「困った人]の第1は、周囲の環境から期待されている役割をキチンと果たせないタイプである。職場でも、学校でも、家庭でも、みんながこうすべきだ、ああすべきだと思っている役割をこなせない。

たとえば、その学生にどんなに才能があっても、試験を受けて合格しなければ進級できない。引き篭もる若者たちは、家庭にいれば普通に暮らしていられるのに。こと学校についてだけ、授業に出なかったり、試験を受けたりしないため、学生無気力症と言われ、やがて全てが上手くいかなくなる。

最近は、職場にも、キチンと出社できない出社拒否症の人がいる。どんなに有能でも、職場が期待する役割をキチンと果たさないと、社員としては失格である。みんなから「だらしない」と言われたり、「何をグズグズしてるんだ!」と言われるのは、テキパキ役割をこなせないためだ。

家庭でも同じことだ。父親、母親、夫、妻としての役割がある。大人になっても。親離れできない。ひとり立ちしない困った人がいる。生活力がなく、妻子がいるのに、親に養ってもらっている人。子どもができたのに、子育てというお母さんの役割が上手くできない母親。妻が共働きで、「子育ても一緒にやってほしい」と頼むのに、仕事、仕事で少しも助けにならない父親。そんな人たちは家庭の中の困った人だ。そして、それぞれ環境にはそれなりに秩序がある。その秩序を保つためのルールがある。このルールを守らないと、困った人になる。不適応な「困った人」の第2のタイプである。

「グズだ」「だらしない」と言われる人は、ついルールを忘れたり、間違えたり、時間に遅れたり、期限に間に合わなかったりする。自己中心的な人物は、ルールに無関心だったり、敢えてそれを無視して、自分本位の行動をとる。夫婦、親子の間にも、ルールがある。ある種の倫理や道徳の問題もある。ところが、これらのルールは、社会、時代が変化するにつれて変わっていく相対的なものである。特に現代は、性や子育てについて。伝統的なルールは大きく変わった。

3歳までは母親は子どもと一緒にと言われていた。いま、生後4ヵ月で保育園に預けるのも、働く母親としてはやむを得ないと、母親の子育てのルールも大きく変わりはじめている。お年寄りを介護するのは家族の務めという時代から。老人介護保険の時代へと親孝行のルールも変わりつつある。とりわけ若い世代に深刻なのは、性のルールの変化だ。若者たちにとっては、1対1の愛情関係を持つことが当然という時代から、複数の関係を持っている人のほうが多くなってしまった。

しかし、そうなると、そのことで傷ついたり、嫉妬に狂ったりして、心の悩みはどんどん広がる。自分の心の中の苦痛も深刻になり、みんなからも「困った人」と言われる。性の世界は、こんな困った若者でいっぱいだ。さらに夫婦関係の変化では、現代の不倫、失楽園ブームもその1つである。以前人々の感動を呼んだ「マディソン郡の橋」の主人公は、家族のルールを守り通すことで心の愛を全うした。ところが、「失楽園」では、ルールを超えることで愛を全うしている。

ルールが身につかず、いつも落ちこぼれたり、ルールを乱す人がいる。ルールを守るという躾(しつけ)が身についていない人だ。幼稚園、小学校時代から登園・登校拒否を繰り返し、家庭の外に身を置く居場所ができないまま、引き篭もりになってしまう人たちもそうだ。

ところが、引き篭もりの人々に福音か訪れた。つまり人間関係のルールなしに、気楽に人とつき合える世界が登場した。それがインターネットだ。ここでは、人と人が対面することなしに、お互いに身を隠しながら、好きな時だけつき合うことができる。そのために、ますます現実から引き篭もり、疑似現実の世界にのめり込む。

対人関係の協調性かない人は「困った人」の第3のグループだ。お互い人と人との間にはヤマアラシ・ジレンマがある。ヤマアラシ・ジレンマとはショーペンハウアーの寓話(ぐうわ)で、ある寒い冬の朝、2匹のヤマアラシが、お互いを暖めようとして身を寄せ合ったが、それぞれが自己主張のトゲを持っているために相手を傷つけてしまう。やがて2匹は、ある程度お互いを傷つけ、ある程度お互いを暖め合う適当な距離を発見した・・・という話だ。

このヤマアラシ・ジレンマのように、ある程度の傷つき、怒り、憎しみが絶えず交錯するのが人と人とのかかわりである。ヤマアラシ・ジレンマを乗りこえて、関わりを持つことかできなければ。人間関係は上手くいかない。どこかで自分の感情を抑えて相手の気持ちに従うとか、妥協するとか、我慢することができないと、人とは上手くつき合えない。その意味での協調性が大切だ。

相手に対する思いやりがあれば。自分のほうが不都合になったり、不利益になっても。「これはやむを得ないな」という気持ちになることができ、さほど無理なく協調できる。協調性がないと。絶えず人とゴタゴタしたり、トラブルが繰り返される。特に職場では、上司、あるいは同僚と一緒に仕事をやっていくことが重要なのだが、それが上手くできない。

幼いときから協調性が身についていないと、幼稚園に行っても友達ができない、みんなにイジメられる。学校の友達にも。職場の同僚にも、いつも不平不満を抱く。それぞれの場面には、それなりの物の考え方や習慣や、やり方がある。それらに自分も従って、みんなと同じようにやっていく気持ちが必要だ。「困った人」と言われる理由の1つに、この協調性の無さがある。

役割が果たせない、ルールを守れない。人との協調性かない。周りの人が「困った人」と言うのは、多くはいま述べた、この3つの条件のどれか、あるいは、その全てが上手くいっていない場合である。

— posted by Azuma at 11:44 pm